知り合いにチェナーコロに呼ばれたはずが、遅れるとの伝言もなく、ひとり待たされ
ていた。歌声を聞いたのは、暇をもてあましていた、そんな時だった。
 確かに美しい声だった。ピオーヴァ音楽学院には、ただ歌声の美しいだけの生徒なら
数え切れないほどいる。しかし、中でも際だってその存在を主張するその声に、軽い興
味を覚えた。その声の持ち主の美しさにも。
 彼女が歌い始めてから一曲が終わるまで、俺はそのチェナーコロの中心から目をそら
すことが出来ないでいた。そしてその後も、ずっと。
 この部屋の支配者は、彼女だった。歌い終わった後、彼女が動くと周りの人間が全て
動いた。彼女のために飲み物を用意しようとする者。今の歌の出来を、彼女がどう思っ
ているかを暗に聞こうと顔を覗き込む者。ピアノの前に座る者は、次に彼女がどんな曲
を歌いたがっているのかを知りたがった。
 その全ての者に公平に、彼女は望むものを与えた。ある者には笑顔を、またある者に
はグラスを受け取る優雅な仕草で。

「もしみなさんが疲れていないのなら、もう一曲どうかしら?」

 賛同する多くの声を当然のこととして受け止め、彼女は有名な曲名をひとつあげた。
 ピアノの奏者は、それならそらで弾けると自慢そうに彼女に告げ、楽譜を取りに行こ
うとした生徒をとめる。
 指揮者はいなかったが、誰もが彼女を見つめ、彼女が軽く頷くのを合図に、音楽が再
び始まった。

 ファルシータ・フォーセット。
 名前と顔は知っていた。成績優秀な元生徒会長で、将来も有望視されている声楽科で
一番有名な生徒。
 しかし、本当の彼女のことは何一つ知らなかった。彼女の歌声さえも、今日初めて聴
いたと言って良かった。
 人がいなくなり、閑散としたチェナーコロの壁に寄り掛かりながら考えていた。

 待ち人はまだ来ない。

 手近な椅子に腰を下ろし、彼女の歌声を頭に思い浮かべる。確かに歌声は素晴らしか
ったが、それだけではない。
 声の質、声量、音程の正確さ。音楽記号に忠実なだけではない歌い方、声の抑揚、そ
こに込められた感情。俺は声楽が専門ではなかったが、全てが素晴らしい、と思った。
 だが、だからこそそれだけではない、と強く感じた。
 技術や表面的な美しさだけなら、この学院を探せば、同じくらいのレベルの生徒は確
実に存在する。
 でも彼女は違う。
 彼女が歌っているときには、そんなことは思いもしなかった。ただ楽しそうに歌う彼
女の横顔を、惚けたように見つめていた。
 しかし音楽の余韻が消え去り、ピアノの奏者が慎重にペダルから足を離した――その、
木の触れあう軽い音と共に、何かが変化した。それは、彼女を見つめていた俺の変化で
あったかもしれない。もし違うのなら、彼女のなにかが変化したはずだった。
 なら、なにが変わった? という自問への答えは出ない。もちろん、彼女が他の歌い
手とは違うと感じた理由とは、なんの関係もないだろう。
 ただ、楽しそうに歌う彼女の顔が目に焼き付いた。反対に歌い終わった後、楽しそう
に談笑する顔はすでに忘れてしまった。
 そして、彼女は違うんだと、ぼんやりと思った。

 憶測というよりも、ただの妄想に近い物思いを断ち切り、時計、そして窓の外へと視
線を移す。あと五分待って来なかったら帰ろう。待っているのは、それほど親しい友人
でもなかった。突然アンサンブルが始まらなかったら、もっと前にチェナーコロを出て
いただろう。 あと五分、と決めたのも取りやめ部屋を出ようとすると、それを見計ら
ったかのようにドアが開いた。

「あら、お帰りになるんですか?」  柔らかなアルトの声は、さっき聞いた歌声そのままに耳に響いた。 「人を待ってたんだが、どうやらすっぽかされたらしいので」 「ああ、やっぱり」  納得したように頷く、ただそれだけの仕草さえ絵になる。顔の造形だけではない美し さがそこにはあった。出会ったばかりの人間にそんな感想を抱くなんて、自分でもおか しいと思ったが、その真実を認めるのにそれほど抵抗はなかった。 「アンサンブルに参加しないから、そうなんじゃないかって思ってたんです」 「フォルテールもなかったから、仕方がなかったんです」  とくに意識はしていなかったが、自然に口調は礼儀正しいものになっていた。女性を 口説く時には意識して丁寧な言葉を使うように心がけていたが、それとも違い、自分で も言った後に気づくくらいに、自然に口から出てきた。 「フォルテール科の方だったんですか……それは残念。今日はピアノ科と声楽科の方し かいなかったから。フォルテールの音色が加わったら、もっと良くなったのに」 「俺はそんなに上手く弾けないんで、邪魔をしなくて良かったと思いますよ」  彼女の歌を聞いた後では、そんな言葉しかでない。 「それは聞いてみないとわかりませんね」 「残念ながら、謙遜じゃないんです」  謙遜だったら、どんなに良かっただろうか。  真面目にフォルテールの練習をしてこなかったことを、わずかに後悔した。二年以上 の歳月を無為に過ごしてきたことを。  フォルテール科の生徒がピオーヴァ音楽学院を卒業するためには、ある試験に合格し なければならない。フォルテールと歌との協奏。そのアンサンブルで名だたる音楽家の 審査を突破しなければならない。この卒業試験が、それからの音楽家としての人生を左 右するともいわれている。  だからフォルテール科の三年はこの時期、歌い手のパートナーを見つけることに奔走 する。そして残念ながら、俺はまだパートナーを決めることができないでいた。  あのままチェナーコロに残っていなかったら、彼女とこんな風に話すこともなかった だろうし、ましてや彼女がパートナーになる可能性もなかっただろう。だからこそ口に することがはばかられた誘いの言葉が、意外にも彼女の口からこぼれた。 「もしよろしければ、一度合わせてみませんか? いつでも構わないので」  断りの言葉が喉もとまで出たが、それよりも先に彼女は続けて言った。 「あ……それよりもまず、確認しないといけませんでしたね。卒業発表のパートナーは もう決まっているんですか?」  その質問に対して、ただ首を横に振る。 「良かった。私はファルシータ・フォーセット。ファルでいいですよ」  差し出された手は、ひんやりとしていたが、想像よりも柔らかくはなかった。 「俺は……アーシノ」 「あら? あなたがアーシノさん?」  かろうじて名前を告げると、小首を傾げ、聞き返された。 「ごめんなさい。あなたのお友達から、今日はここに来られなくなったって伝言を預か ってたの」 「え?」 「歌に夢中になって、忘れてました」  屈託もなく彼女は笑った。  それが、ファルシータ・フォーセットとの出会いだった。  俺が崇拝した、三人目の女性だった。
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